あるスポーツ選手の堕ちる事象に寄せて
- 2016年02月14日 |
- 三澤的思考 |
堕ちる。
どこまでも堕ちていく。
この誘惑に誘われたことのある者は、人生のどこかで平凡な人生ではなく、普通に生きていては味わえない絶え間ない刺激と興奮のある人生、高みを目指したことのある者であろう。
薬物にはまり、そこに頼り、堕ちてしまった、かつて有名だったスポーツ選手。
高みを目指し生きるのと、堕ちて生きるのは、紙一重。表裏一体。
高みに生きられないのなら、思いっきりの底で生きる。
振り子は、両極端に振れる。
そう生きるしかしょうがなかったのだから。振り子が途中で止まるということを知らなかったのだから。
しかし振り子は途中で止めることもできる。自分がストップをかけさえすれば。
例え勢いが強くて、自分が望んだところで止まらなくても、時間をかけて好きなところに動かすことができる。その動かし方を知ってさえいれば。
残念ながら、多くの高みを目指した者は、その振り子の止め方もコントロールの仕方も知らない。
当然である。誰も教えてくれないし、高みから落ちる時には、それまでいた多くの人は去ってしまうのだから。
孤独。
だから堕ちて行く。
どこまでも登る感覚と、どこまでも堕ちる感覚。そのスピード感が早ければ早いほど、それは同じ恍惚感をもたらすのかもしれない。
同情ではない。多くの者が単に否定するであろうが、一度でも高みを目指した者なら分かる。そう生きるしかなかったのだと。
僕も堕ちたいと思ったことはある。その誘惑は強い。
でも。そう成る者と成らざる者の違い。
それは、人とのつながり、世間とのつながり、社会とのつながりである。
独りぼっちなのか、誰か側にいるのか。
何処ににつながるか、誰とつながるか。
高みから下る時に自分の立ち位置を見つける。
時には新たな高みを目指す。
それが出来るかどうか。
僕はこの位置で振り子を止めたい!
そう思う意思が重要である。そして、そう思わせるのが、人との、世間とのつながりでる。その時、誰と出会うか、誰と繋がっているか。。
人とつながっていなければ、人は簡単に堕ちていける。つながっていなければストッパーはないのだ。
僕は堕ちて行く者の気持ちが痛いほど分かる。
でも、やはりそれは止めなくてははならない。
そのためには、人と、世間とつながり続けることなのだと思う。
自分の内なる世界に閉じないために。
一度でも世間に夢を与えた責任を全うするために。